場所:PROVO
2019年12月1日に開催されたOTO TO TABI 2020のスターティングパーティー〈RITTO(リットー)〉。
トークコーナでは北海道の音楽レーベルChameleon Labelのお2人、田中一志さんと下川佳代さんをお招きし、レーベルの歩みとアーティスト活動についてお話をしていただきました。
トークテーマは「続けること」。
お話から見えてきたのは、様々に移り変わる時代の中で、自分たちの納得できる道を模索しつづけるお2人の、闘う姿でした。
―今日はなぜこのお二人をお迎えしたかと言いますと、OTO TO TABIが次で10回目の開催、Chameleon Labelが2020年で、20年目の節目を迎えるということで、10年先輩のお二人から「続けること」に関して学びを得たいと思ったからなんです。
Chameleon Label下川佳代さん(以下、下川):いえいえとんでもないです、わたしが学びたいくらいです。
―今回は基本的に時系列に沿ってトークを進めていければと思うんですが、その前に、お二人のお仕事があまりにも多岐に渡っているので、あらかじめ少し触れておきたいと思います。
下川:わたしたち、レーベルとは別に昔から商業的な音楽制作もやっていまして、それも各自違うのですが、わたしは作家とかアレンジャーとしてアーティストに曲を書いて提供したりだとか、いろんなシーンの音楽を作っています。テレビアニメとか、舞台、映画、CM、イベント…いろいろある(笑)
―北海道に住んでいる人がわかりやすいところでいうと、CREATIVE OFFICE CUEさんの音楽関係だったりとかがありますよね。
下川:そうですね、CREATIVE OFFICE CUEさんと、TEAM NACS(チームナックス)は20年くらいのおつきあいで、田中と一緒にいつも作らせていただいております。
―そしてまた、お二人ともソロ活動を通してご自身の表現もされています。ほんとうに活動が多岐に渡っている、そんなお二人がレーベルを立ち上げて運営されてゆくなかで、どんなことを思ってきたのか——今日は、そういった点をうかがっていければなと思います。
では時系列に沿って話を進めさせていただければと思うのですが、まずレーベルを始められた経緯というのはどんな事だったんでしょうか?
Chameleon Label田中一志さん(以下、田中):さきほどいろんな音楽制作をしていた、という話があったんですけど、けっこうCMとかが多かったんです。いわゆるバブルの時代があって、正直いうとCMとかがすごくお金になった時代。普通に仕事やってても「え、こんなにもらえるの?」みたいな時代があった。でもバブルが崩壊して、そういう時代が終わったときに「何がやりたいのか?」っていうことを考えたとき、自分自身で納得する音楽を作っていくことや、周りにいるこいつらかっこいい!!と思えるバンドを世の中に知らせて行くことだっていうことにだんだん気づいていったんです。
そういう時にいろんな人たちと知り合う中で、「ミュージックキャンプin夕張」っていうイベントの企画を頼まれて、AIR-G’(FM北海道)さんでバンドを募集して、みんなで夕張に集まって演奏して、「そこで盛り上がったらそのままデビューさせちゃえ」みたいな(笑) そういうイベントをやったんですよね。
そのときに上田健司さん(ex.the pillows、長渕剛などのプロデュース)など当時知り合いのプロデューサーさんたちに北海道へ来てもらって、みんなで演奏を聴いて、その場で出てきたバンドのいくつかが良いっていう話になって「一緒にやろうよ」「じゃあレーベル作っちゃおう」っていうのがレーベルが始まったきっかけ。その時、出演していた室蘭の〈the blondie plastic wagon〉とか旭川の〈MOTOR☆PCYCHO〉というバンドを一緒にやろうよ、という話になったんです。
―それまでは、自分たちでレーベルをやろうっていう気持ちはお持ちだったんですか?
田中:カウンターアクションとか、すでに北海道でレーベルをやってる方たちを見て、憧れてました。
―いわゆるレーベルの仕事っていうと、形にして、流通させる、っていうことになりますよね。
下川:レーベルって言っても形がいろいろたくさんあるので、一概に「レーベルとはこうです」とは言えないと思うんですけど、うちの場合は2人とも音楽制作をしていたというのがベースにあって、なんらかの形でアーティストの制作に関わったり、サポートをするという形です。
例えば、すごく歌がうまくて、曲も書けるんだけど、アレンジという部分が必要だからサポートしたりだとか、もしくはアレンジまで完璧で、でも流通をどうしたらいいかわからないとかであれば、流通できるような形に整えてあげて、流通システムを一緒に考える、とか。そういう、実はひとつずつ全部違うんですよ、関わり方が。
―レーベルを立ち上げることになって、どれくらい続けようと思ってましたか。または、どういう先を見ていましたか?
下川:〈一志さんに〉先って見てた?
田中:先っていうか…周りにすごくかっこいいアーティストがいるんだなっていうのがあったので、自分たちがどういうものをしようっていうより、そういう人たちと一緒に表にたくさん露出していくようなことができればいいなっていう、そういうことだけをすごく思いながらやっていただけなので後先は正直考えずでしたね。
下川:不思議なことに、出会うんですよね。「わあ!」っていうアーティストと。さっき話に出た夕張でも、血が逆流するほどかっこよかった! なので…みんなひとつずつ、出会ったんですよね、次から次へと。
田中:そう、だから単純に、見て、「うわかっこいい、関わりたい!」みたいなね。
―初期のChameleon Labelで、なにか印象に残っていることはありますか?
下川:〈こけしDoll〉っていう、出会ったとき17歳のセーラー服を着た女の子のバンドなんですけど、ものすごいかっこいいパンクロックをやってたんですよ。その子たちとはすぐに一緒に音源をつくりたいなと思って、初めて会ったときに「一緒にやりたい」って言って。
それで一緒にやるようになりました。で、すぐのタイミングですね…、一曲作ったくらいのときに、わりといろんなところから声がかかったんですよ。
17歳で、女の子で、ギターかき鳴らしてパンクロックやってるってその当時は珍しかったんですよ。それでいろんな大人がきたし、その時はとんとん拍子みたいな感じで「世界とか行けたらいいな」って思っていたら、SXSW(サウスバイサウスウエスト)出演の話が来て。
―アメリカのオースティンのイベントですよね。音楽と映画とテクノロジーを合わせた。
(※編者注、Twitterが世界的ブレイクを果たすきっかけになったイベントでもある)
田中:今はそうですけど、最初は音楽だけでした。
―日本からすると、一見「大きなフェス」みたいに見えるんですけど、より正確にはショーケース・イベントで、ビジネスチャンスを掴むためのイベントって意味合いも強いですよね。
下川:いろんな場所で、大きい会場でもやってるし、あとストリートの両側にもライブハウスがたくさん並んで、もうぜんぶ、街中でライブをやっているんです。そこの、〈JAPAN GIRLS NITE(ジャパン・ガールズナイト)〉、っていうイベントに出演しました。それがきっかけで全米ツアーっていうのをやって、シカゴとか、NYブルックリンとか、あとボストンを回ったんです。
―そこで(サウスバイで)話が膨らんだっていうことですか?
下川:そうですね。その時はメジャーレーベルも彼女らのことをすごく応援してくれて、金銭面でも応援しようってことになったので行けたんです。とても自分たちだけでは行けなかったので、いろんな援助を受けながら彼女たちと回った。その時がいちばん初期では思い出があります。
―どういったところで刺激というか、持ち帰ってきたものがあったんでしょうか?
下川:もう全てだったんですけど、まずあの…物販が…(笑) もちろんサウンドもなんですけど。
サウンドはそのときは行ったらすぐ音鳴らすみたいな感じ、ちゃんとしたリハもなかったよね?
田中:日本よりもPAシステムとかそういうのはぜんぜん、雑でしたね。もちろんちゃんとしたところもあるんでしょうけど、いわゆるインディーズ系のバンドがやるような場所っていうのは、飲み屋兼ライブハウスみたいな感じで、行ったらすぐに演奏できる、みたいな環境がずっとある。
でそこに入ってバーンとライブをやると、ものすごい太ったスキンヘッドのやつらが沢山いるんですけど、すごい勢いで来るんですよ。驚いたよね? で「物販が印象的」ってたぶん言いたかったのは、そのライブが終わった後にその怖い連中が、一挙に物販に押し寄せてきたんですよ。
下川:すごかったんですよ。ドリンクバーにいたピアスいっぱいつけてタトゥー入ってるめちゃめちゃかっこいい女性が走ってきて「全部ちょうだい」って言ってまるごと買って行ったりだとか、その目つきが今でも忘れられないくらい。「えー! これ通用するわ!」とそのとき思いました。
それで、そのバンドの歌詞は日本語だったので、「言葉って大丈夫なんですか、わかるんですか?」って聞いたんですよ。そしたら「英語でもパンクはわかんないから、おんなじだ」って言われて、「あ、おんなじか」と思って(笑)。じゃあ日本語でもいいんだと。
―なにか取り入れたいというか、「もっとこうなればいいのに」と思うような海外の音楽業界の仕組みとか、体制というのはありましたか?
田中:やっぱり日本とはあきらかに違うな、っていうところはありました。やり方も、当時僕らはバンドを見つけたときに…まあ日本自体が全部そうだったと思うんですけど、まずメジャーのレコード会社に連絡して見てもらって、それで良かったら、「やりませんか?」みたいな。
―そういう型があったと。
田中:ええ、そういう時代だったんですよね。レコード会社も、会社のシステムとして地方に発掘の方がいて、いいアーティストを見つけたときに、じゃあ地元でつくろうという時は我々のような(レーベル)に声をかけて「資金援助をするんで一緒にやりましょう、そのかわり、そのアーティストが大きくなったらウチにください」っていう関係性なわけですよ。
で僕らも彼ら(メジャー)がどう進めるか、っていうのに合わせた制作をバンドにしなきゃいけなくなる。そういう流れが当時はあった。
―アーティストが流れに乗るためには、メジャーから求められている作り方をしてあげた方がレーベルとしては正しいというような、そういう時代だったんですね。そういうのがアメリカだと違うように見えたんでしょうか?
下川:いろいろ物の売り方とか、値段の付け方にしてもすごい自由なんだな、って。それまでは1500円じゃないといけないとか、1600円じゃないといけないとか、そういう思い込みがあったんですけど、向こうは来るお客さんによって値段のつけかたも違ってたりとかして、すごい勉強になりました。
―それが、だいたい初期から、10年のあいだに起こったことですよね。
田中:そうですね。
―ここで少し時系列を進めて、レーベルをはじめて10年目以降の話をうかがっていきたいんですが、きっかり10年目のことではなくても、そのあたりの節目でなにかレーベル的な変化や出来事はありましたか?
下川:初期のころ出会ったバンドで、やっぱりみんなカッコ良くて、いくつかメジャーレーベルさんと一緒にやったりとか、タワーレコードさんが新しいレーベル作るのに参加して一緒にやったりとかもあったんですよ。で、そうやって出会ったバンドが表に出ていくってことはすごく嬉しいことで、「どうなってくんだろ?」「あんなすごかったバンドだからきっと凄くなっていくに違いない」って思いながら送り出していってたのが最初の10年間くらいだったと思うんです。
でも、送り出したバンドたちのその後を見ながら、必ずしも現実はその通りにならない、というのを目の当たりにして、「なぜなんだろう?」って考えたのがその10年目くらいですね。「音楽が時代に合わなかったのだろうか、彼らの実力が足りなかったのだろうか、それとも、私たちの送り出し方が間違ってたんだろうか…」とか、そういうのをすごい考え始めました。
田中:なんか、話をしながらだんだん思い出してきたんですけど(笑)、さっきタワーレコードさんと組んでレーベルを作ったって話をしてたと思うんですけど、タワーレコードPIVOT店の当時店長だった山田さんという方がいらっしゃって、その方が札幌に来る前は沖縄の店長さんで、〈MONGOL800〉がヒットした時の仕掛け人なんですよ。
で、札幌にきたときに「一緒になにかやろうよ」っていう話になって、ウチでやっていた〈HIGH VOLTAGE〉っていうバンドを一緒にタワレコさんのレーベルでやって、メジャーデビューが決まったんだけど、なかなかうまく行かなくて。その時に山田さんが「ちょっと沖縄見に行きなよ」って言ってくれて、で沖縄に行ったんです。沖縄のレーベルの人たちやレコーディングスタジオとかライブハウスの人たちを全部紹介してもらっていったときに、「あ、北海道とぜんぜん違うな」って。
僕らは当時、ライブハウスとかで良いアーティストを見たときに、レコード会社に「どうですか?」ってやってたんですよ。でも沖縄のライブハウスの店長と話をしたら、「メジャーのレコード会社の人とか来るでしょ、どうするんですか?」って聞いたら「追い返します」って(笑)
―それはなぜでしょうか?
田中:自分たちが一生懸命やったのに取られたくないからです。そこの発想が全然違う。で当時の沖縄っていうのはFMラジオ局とレーベルとレコード会社とがみんな仲間同士で組んで、出てきたアーティストを全部自分たちで大きくしようとしていたんです。だから沖縄のタワーレコードに行くと1番目立つところに地元のコーナーがある。ラジオのFM局聴いてると、ぜんぜん知らない音楽ばかりかかってる。なんだろうと思ったら地元の、新人バンドの曲。
「これ理想だな」って思ったときに、自分の中でメジャーさんと組んでやっていくことにすごくクエスチョンが出てきてしまって、それが10年目くらい。
―こうすればもっと自分たちのやりたいことができるんじゃないか、というのが見えたんですね。
田中:いや、ぜんぜんそんな簡単にいかないんですけどね(笑) それは難しくて。
下川:今までの方向じゃないな、って思い始めたのがそこらへん(10年目あたり)で、じゃあ「なんなのかな」っていうところを模索し始めたくらいですね。
それまでみたいに、すぐ「メジャーとなにかをやろう」とか、そういうことを一番には考えなくなりました。それよりも、この音楽を誰と組めばもっと広められるんだろう? ——「誰と」っていう風に変わりました。この音楽が1番合う人は誰かな? っていう人を私たちが知ってる限りの人脈で探していったり、調べていったり、売り込んで行ったりだとか。
―それはたとえば、いろんなメディアとかにでしょうか。
下川:メディアとか、あとは個人ですね。
田中:ライブハウスのブッキングの人とかね。
下川:会社じゃなくて、個人とかほんとにポイントが合った人に届けないかぎり難しいと思って、やり方を変えていきました。
―そのときの周りの反応っていうのはどうでしたか?
田中:簡単に言ってるけどめちゃくちゃ難しいことなんです。要は、メジャーレーベルと組んでいれば製作費は援助してくれるし、その先のデビューもちゃんとある。だけど僕らにしてみればデビューしたあとのほうが重要で、みなさんも知ってると思うけどデビューするバンドってものすごい多いじゃないですか。だけど残ってるバンドってどれだけいるんだって話ですよ。
―確かに、残っていくバンドというのは限られてしまいますよね。
田中:そこの成功したところまで行かないかぎり、やっぱり成功じゃないんで、「結局だめだったんだ」っていう、それは味わいたくない。
だから成功するとはどういうことか、メジャーデビューするということではなくて、その「成功する」ってところを考えたときに、別にメジャーだろうがインディーズだろうがもう、どっちもありだし、ただ自分たちが一生懸命——自分たちでビジネスしようって思ったら絶対にインディーズの方がいいなって気づいたんです。
―いろんな、育てたアーティストが音楽の仕事を続けていくていうことを考えた時に、選択肢はメジャー意外にも色々あっていいわけですね。
田中:ただ、メジャー否定をしてるわけじゃない、という事は皆さんにわかっていただきたいです。メジャーでも全然オッケーなんです。そこに合うアーティストはそこに行くべきだと思います。だけどそうじゃないアーティストも当然いるわけだから、そういう人たちは自分たちの音楽に合ったやり方をした方がいい場合もある。
―そこの部分の理解度っていうのは、今は音楽のリスナー層にも浸透している時代だと思うんです。「メジャーの良さもあるし、インディーズの良さもあるし」っていう、そこは感覚としてオープンだろうと思います。
田中:時代が変わったんですよね。バンドは 今はメジャーに行ってもなかなか難しい時代にはなっている気がします。特に独自性、アーティスト性が強いものは特に。
―それこそ2000年から2010年にかけて、音楽の流通の仕方・聴かれ方もかなり一変しましたよね。象徴的なことで言えばiPhoneが登場して、誰もがCDを買う時代じゃなくなる、というのがはっきりしてしまった時代でもあります。
そういうなかで、レーベル運営という面では影響などありましたか?
田中:正直いうとね、ものすごい苦戦してるんですよ。今もそうなんですけど、そう簡単なもんじゃないんですよね。だからなんか、偉そうにここに来てるけど全然成功例ではないです。力不足もありつつ、でもアーティストと一緒に色々考えて、でも今は長年やってる中で人脈が広がっているので、色々できるようになってきてるかなって状態ですね。
―なにか下川さんからOTO TO TABIに質問などありますか?
下川:やっぱり結束しないとあれだけのパワーアップを毎年しながら継続ってしていけないと思うんですよ。チームとしてやっていくって大変だと思うんですけど、チームとしての結束の秘訣っていうことが聞きたいです。
―じゃあこれは僕よりも違うスタッフが答えた方がいいと思うので…
(OTO TO TABIスタッフ南さん登場)
南:OTO TO TABIスタッフの南と申します、よろしくお願い致します。
チームで、っていうところなんですけども、正直ずっと身内ばかりで続けてきていて、4年目で会場の規模を大きくしたときに〈雪だるま隊〉というボランティアスタッフを募集して、コアスタッフとボランティアスタッフという、そこから今の体勢ができてきたのかなあというところです。
あと最近はコアスタッフだけではなくて、雪だるま隊以外にスタッフを増強したいというのがあったので募集もして、それで何人も入ってくれて、やっとチームらしいチームになってきました。
それまではけっこう、誰も彼もが全部の業務をやっているみたいな(笑)、1人にすごい量の仕事が集中していたりだとか、けっこう無理がある状況でやっていましたね。
下川:チームの方の年齢層って、どこかに集中してるんですか? それとも幅広い年齢層の方が加わってるんですか?
南:前までは同世代のスタッフが多かったんですが、スタッフを増強してからは学生を含めた下の世代の方と、上の世代の方も入ってくれたので、年齢も幅が広がってバランスがとれたなと思っています。
田中:出演アーティストの選択ってどんなふうにしてるんですか? 毎年、ものすごく大好きなアーティストばかり出てるんですよ。これってよっぽど同じ発想を持った人たちが集まらないとなかなかできないことなんじゃないかなって思ってるんです。しかもポイントが今の音楽のポイントに合ってるっていう。
南:そうですね…やっぱりみんな好きなアーティストはもう少し幅広くあるんですけど、何十アーティストも候補を出したなかから投票で決めるんですが、じゃあ「誰をこの中でOTO TO TABIに来て欲しい人として声をかけるか」っていうのを決めていくなかで、“OTO TO TABIらしい”アーティストに自然と絞られてゆく、っていうのはありますね。
田中:有名なアーティストもいるけど、あんまりまだ知られていないアーティストもいるじゃないですか、そういうアーティストに関しては自分たちが北海道に広めていきたいとか、そういう気持ちもあるんですか?
南:「広めたい」っていうよりは…何よりも自分たちが「観たい」が1番です。(笑) 仕事としてプロモーターのようなことをしているスタッフはいないですし、年に一回だけのことなので、広めると言っても1日限りのイベントになってしまうので、それよりはやっぱり、「自分が観たい」っていう。(笑)
下川:なんか、ちょと似てるなと思ったのは、わたしたちのレーベルも2人で好きなようにやってるので、ピンとくる好きなアーティストとやりたいっていうところは一緒だなと思いました。そこはずれてない、っていうか。
そこをずらしちゃうとまったく変わっちゃうから、どんなことがあってもそこは変えない、っていう。
田中:皆さん音楽が好きで、しかもアンテナ高いじゃないですか。
南:高いかはちょっとわからないですが…(恐縮)
田中:高いと思いますよ。僕らが勉強になるんで。
下川:うん。よっぽど聴いてるっていうか、いろんなところに出向いて行ったり、探したりの努力をしてたりするのかなと思うんですけど、どうなんですか?
南:わたしはYouTubeをよく見てたりとか、あとここ(会場のPROVO)に飲みに来た時とかにスタッフの方から「これ聴いてる?」とか「最近これ熱いよ」とかいろいろおすすめをされたり、そういう会話で拾っていくこともありますね。
田中:自分でもライブをしょっちゅう見に行ってますもんね。
南:ライブは、はい、そうですね。
―僕はチームに入ってみて思いましたけど、南さんはじめ、スタッフ全員とんでもない音楽好きなんです。知識や行動力、音楽へのリスペクトもすごくて、圧倒されるくらい。そういうスタッフが集まって投票をやると、シーンを反映したラインナップになるのかな、とも思います。
―では、また時系列を進めて、現在の話をしていきたいと思うんですけど、20年が経って今なんですが、レーベルのニュースとしてはsleepy.abの7年ぶりの新しいアルバムが1月に発売されるということがありますよね。そんなsleepy.abですが、レーベルにとってはどんな存在ですか?
田中:いやほんとにね、うちのレーベルの歴史と言ってもいいくらい。もともと専門学校の生徒だったんですよ。
下川:そう、私が専門学校に教えに行ってたときの生徒がsleepy.abのメンバー三人だったんですよ。DTM、コンピューターミュージックの授業をしていたんですけど、ボーカルの成山剛が卒業制作だったと思うんですが、作ってた曲を聴かせてくれたんです。「こういうのを作ってるんだよね」って言って。それでなんか私が感想を「いい曲だね」とか、あと「変わってるね」みたいなことを言ったらしいんですけど(笑)
それで、卒業してからちょこちょこライブの連絡が来てて、ずっと行けなかったんですが、「一回行かなきゃな」と思って2人で行ったんですよ。そしてライブを観て、田中がそこで始めてボーカルの声を聴いたんですね。すごいいい声で、一緒にやってみたいな、って。それから少し経ってプロデュースや音源制作をするようになったんです。
―プロデュースっていうと言葉としてはよく聞きますけど、実際にはどんなお仕事なんでしょうか。
田中:sleepy.abの例で言えば、その当時、世の中でレディオヘッドがものすごい注目を浴びてた時代で、sleepy.abのバンド名はもともとはsleepyheadだったんですよ。基本的にはそこにルーツがあって、だから、レディオヘッドって当時『OKコンピューター』とかその辺を出したくらいで、バンドにエレクトリックの要素が結構入ってきた時代。
sleepy.abは生のバンドで、エレクトリックは無かったんですが、話したらそういう方向でやりたいと。僕自体は彼らに対してはプロデューサーという立場ではあるんですけども、どちらかというとエレクトリック部門担当みたいな立場で鍵盤を入れたりだとかの共同制作から始まってのプロデュースです。
それを続けていっていろいろ注目されるようになって、さっきの時系列でいうと、メジャーデビューが決まったのが…アルバム5枚目?
下川:6枚目に行くかな、っていう時ですね。
田中:僕自身は日本にいる既存のロックバンドじゃないようなものになっていけそうな気持ちになってたんで、「このバンドを日本一のロックバンドにするぞ!」みたいな、そんなことを勝手に思っていて、でメジャーデビューしたときに、これは良い悪いじゃなくて、やっぱり既存のJ-POP寄りの流れになってく、っていうのがあって…。
―そして、今また、再度タッグを組んだわけですが、いろいろ感慨はあるんじゃないでしょうか。
田中:「またこいつらと付き合うのか!」みたいなね(笑)
下川:彼らは彼ら自身でやっていたのですが、ある日突然というか、また一緒にという相談に来て、その後まず成山剛のソロアルバムを一緒に制作しよう、っていうところからすこしずつ始まって、それで今回はバンドとしても一緒にやろうか、っていう流れになりましたね。
田中:結局、さっきからの話につながるんだろうけど、なんでsleepy.abとやってるかっていうと、やっぱり彼らの音楽が好きなんですよね。確かにいろいろあったけども、やっぱり曲持ってきて聴いたときに「あ、これいいなあ」って思えて、そこで自分のなかでも作るイメージが出来ちゃうんで、ただそれを再現する作業をしていく、っていうのがレコーディングなんですよね。
やっぱり、彼らは十何年やって、すごい成長しているわけですよ。で、アーティストが音楽的に十分確立しているのなら、彼らが好き勝手やる音楽が1番ベストなんで、そこのなかで自分の立場がどれだけプラスアルファになれるかっていうのをやってるだけかなと思います。
―やっぱり、ここまでお話を伺っていくと、お二人の裏方魂っていうか…裏方という言い方がいいのか…もっと別な言葉を見つけたいんですが、そういう心意気がすごいんだなっていうのを感じます。
そしてさらに、今はそれぞれ、ご自身のソロ活動もされていますよね。それで、この前ちょうどラジオのインタビューを聴いていて意外だったんですけども、下川さんがソロ活動をやろうと思われたのはけっこう最近なんですよね。
下川:最近ですね。2018年に自分のアルバムを出して。自分でアルバムを出そうなんて思ってもいなかったし、出したいって気持ちもなかったんですよ、ぜんぜん。
なんですけど、突然、ふと気付いたら、「自分の音楽って一枚も出してないな」って思って、それで「今出さないともう出せないかもしれない」って急に思って、ソロアルバムを作ったんです。
―この音楽(会場にかかっている、下川さんのソロプロジェクトtuLaLaのアルバム『shizuku』)を聴いていたらそうとは思えないです。むしろ、ずっと自分の中の原風景を追い求めていた人の音楽、という感じがします。
下川:うれしいです!
―このあいだは新しい音源を出されましたよね。
下川:はい、東京のフォークロックバンド、〈ROTH BART BARON〉のフロントマンの三船雅也くんがフィーチャリングボーカルで歌詞も書いてくれて、一曲だけ配信でリリースしました。
―これがまた良くて、すごい静かなんですけど、ダンスフロア感があって、聴いてるといてもたってもいられなくなるような、そういう曲だと思いました。
下川:『Caution Icy』っていうタイトルなんですけど、北海道では冬の道路で車に乗ってると見かけるんですけど「凍結注意(Caution Icy)」っていう看板があって言葉の響が好きで、、(笑)。氷の上でダンスを踊っているイメージで書いた曲です。
三船くんに投げかけて「こんな曲できたんだけど、歌と歌詞も三船くんありかな?」って相談したら、「良いね」って言ってくれて、それでプログラミングして形にして、昨年一緒にライブで披露しました。
―そして、田中さんもやはり、Shizuka Kanataとしてソロの活動をされていますよね。
田中:僕はもう何年前だろう、2013年に二枚同時に出したんですけども、今また次のを作ってます。やりたいことがたくさんあるので。 昔はお仕事したアーティストとかと「じゃあ今度一緒に何かやろう」って簡単にはできなかったんですよ。事務所の関係だとか、いろんなしがらみがあって。でもわりと最近自由になってて、「何か一緒にやろうよ」って言ってデータのやりとりだけで作っちゃって、で進んだら「出そうよ」みたいなのも多くて、これから2020年はそういうアーティストとの楽曲を出そうと思ってます。誰と、っていうのはまだ言えないんですけどね。
―楽しみです。
最後に、ぜひ未来の話をしたいのですが、アーティストに限らず、裏方としてもこれから音楽活動を続けたいと思ってる人や、また音楽業界に入りたいと思っている人に向けて、なにか、メッセージとかアドバイスをいただけないでしょうか。
田中:なんだろうなあ、音楽ってほんとにやること自体は楽しいんですよね。でも長く続けるにはすごく大変だから、ただ好きなことだけをやるだけじゃなくて、それぞれが自分の音楽に合ったやり方をちゃんと勉強して、ビジネス的なことも考えて、そういうところも勉強しながら頑張るのがいいと思います。
ウチもただ作ればいいというわけじゃなくて、そういうところも一緒にやりましょうみたいなやり方をしています。今日、会場に〈葉緑体クラブ〉ってバンドも来てるんですけども、彼らはうちのレーベル所属ってわけじゃないんだけど「いっしょにやろうよ」っていう話になって、流通を担当したり、レコーディング手伝ったりしたけど、管理業務は自分たちでしっかりやっている。それはそれで楽しいし、いろんなやり方があるんで。
僕はよく見た目が怖がられるんですけど、怖くないんで(笑)、何かやりたいなと思ったら一緒にコミュニケーションとっていきたいですね。当然OTO TO TABIにも顔出してますし。
―下川さんからはいかがですか。
下川:そうですね、レーベルとしての仕事、作家とかアレンジャーとしての仕事、って一応カテゴリー的には別れてる感じもするんだけど、結局全部繋がってるんだ、っていうのを最近つくづく感じます。
わたしはアニメの仕事とかもやるんですが、普段、アニメはほとんど見ないんですよ。でもそういうお仕事いただいて、興味を持つようになって色んなアニメを見て、アニメの深い世界を知ることができて。勉強しました。
―ストーリーなどをですか?
下川:そうですね。その作品がシリーズ物だったら最初から全部見たりとか、その音楽も研究して、気づいたら作品がすごい好きになってたりということがあります。今、流していただいてる私のアルバム(会場の音楽)は弦楽四重奏も私がアレンジしてるんですけど、それも全部独学でやっているんです。
今考えると、アニメの曲ってオーケストラの曲も多くて、ものすごいクオリティが高いのを要求されることもあって、それでわたしはアニメ見ない時は軽々しく思っていたのが「もう勉強しないとやっていけない」って思って、そこから弦のアレンジだとか、オーケストレーションとか、さらに研究するようになった。
だからソロアルバムでもそれを入れたいなって思ったんです。打ち込みのオーケストラが生の楽器でちゃんとレコーディングしたらどうなるんだろうとか、レコーディングしたらこういう音になるんだ、というのがわかってきたので。ぜんぶ繋がってるんだな、っていうのは思います。
―創作活動ってそうですよね。違う場所の出来事が、他の地点で活きたりしますよね。
下川:そうですね、だからレーベルで、いま60タイトルぐらいの作品に関わらせてもらって、アーティストは40組ほど関わってきて、ひとつずつ、全作品、すごく憶えてるんです。もうどれもいろんなエピソードだとか、アーティストの悩みだとか、喜びとか全部一緒に共有してきたから、全部それが、わたしとレーベルの血肉になってるんだな、って思ってて。これからも関わっていきたいなあ、って。
―これからも続いていくわけですね。
下川:続けたいです。
―僕らも勉強しながら続けて行きたいなと思いました。
下川:一緒に続けて行きましょう。
―はい。本日は貴重なお時間ありがとうございました。
ファンタジーなエレクトリックサウンドを表現するtuLaLaがROTH BART BARONの三船雅也をVocalに迎え、デジタル配信でシングルをリリース! 極上のファルセットヴォイスにエレクトリックと生弦が絡むコールドなサウンドが完成! タイトルの「Caution Icy」はtuLaLaの住む北海道の冬の凍結した道路で見かける標識「凍結注意」から氷上のダンスをイメージ。ユニークな三船雅也の歌詞や印象的な美しい弦にもCaution!!。 ■tuLaLa |
1. decode (Instrumental) ■sleepy.ab ■Chameleon Label |